須田国太郎の芸術―三つのまなざし―

大分市美術館
終了しました

概要

須田国太郎は「東西の絵画の綜合」という壮大なテーマを掲げ、近代絵画史に偉大な足跡を遺しました。本展では、代表作に加え、滞欧中に撮影した写真、能・狂言のデッサン等も展示し、須田の新たな魅力を紹介します。
会 期 令和6年1月5日(金曜日)から2月18日(日曜日)まで
時 間午前10時から午後6時まで(入館は午後5時30分まで)
休館日令和6年1月9日(火曜日)、15日(月曜日)、22日(月曜日)、29日(月曜日)、2月13日(火曜日)
観覧料一般1,000円(800円)、高大生700円(500円)中学生以下は無料
 ※( )内は前売り、20名以上の団体料金 です。
 ※ 上記観覧料でコレクション展(常設展)も併せてご覧いただけます。
 ※ 身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳提示者とその介護者は無料です。
 ※ 「大分市美術館年間パスポート」がご利用になれます。 

【前売券情報】
・販売期間:令和5年12月1日~令和6年1月4日
・販売場所ローソン(ローソンチケット  Lコード:83025)、セブンイレブン(チケットぴあ  Pコード:686-676)大分市美術館、大分合同新聞社本社受付、同プレスセンター、OBS大分放送地域事業部、トキハ会館
・くにたろうカードプレゼント
須田国太郎展の前売り券をご購入いただいた方、先着100名様に「須田国太郎作品解説おまけカード(くにたろうカード)」をプレゼントします。
 ※前売り券をコンビニでご購入の方は、大分市美術館受付にてお渡しします。
 ※数に限りがございます。なくなり次第終了とさせていただきますので、あらかじめご了承ください。 
会 場大分市美術館 企画展示室
主 催大分市美術館、大分合同新聞社、OBS大分放送、須田国太郎展実行委員会、公益財団法人 きょうと視覚文化振興財団
協 力大分県立芸術文化短期大学、平和市民公園能楽堂

展覧会のみどころ

《鵜》1952年 京都国立近代美術館

01   須田国太郎の作品を九州でまとまってみられる貴重な機会!

京都に生まれ、京都で生涯を過ごした須田国太郎の作品の多くは、ゆかりの地である京都や関東の都市部の美術館に所蔵されており、九州では須田国太郎作品を目にする機会はなかなかありません。本展は、須田国太郎の名品はもちろん関連資料含め約410点をまとまってみられる、貴重な展覧会となります。
サグントローマ劇場跡(スペイン・サグント)1922年
三之瀬御本陣芸術文化館

02   須田国太郎の旅を写真もあわせて紹介します!

本展は、「須田国太郎の芸術―三つのまなざし―」というテーマで作品を展示します。三つのまなざしのひとつは「旅でのまなざし」です。須田国太郎は生涯で、数多くの旅に出かけました。なかでも1919-23年のスペインを中心とするヨーロッパ滞在は、その後の須田の制作に大きな影響を与えました。本展では旅先で須田が実際に撮影した写真や、旅先で写生するために用いた道具類もあわせて展示し、須田の旅をより身近に想像できる展示となっています。
《山姥》1948年 京都国立近代美術館

03   須田国太郎の能への関心に迫ります!

三つのまなざしのふたつ目は「幽玄へのまなざし」と題し、須田国太郎の能・狂言への関心に迫ります。須田は十代のころから、謡曲を習うなど能への関心を持ち、能楽を鑑賞しながらたくさんのデッサンを残しています。本展では須田の能・狂言に関する作品を紹介するとともに、大分展では、平和市民公園能楽堂の協力により能面を展示するほか能に親しんでもらえるイベントを行います。
《犬》1950年 東京国立近代美術館

04   須田国太郎の代表作と著書を紹介します!

須田国太郎は、絵画制作と学術研究、その両面から「芸術的真理」を探究しました。三つのまなざしの三つめは、「真理へのまなざし」と題し、須田の代表的な黒を基調とした作品群を核に《犬》をはじめとする代表作品と著作を紹介します。
グリコのおもちゃ《洗濯機・白黒テレビ・冷蔵庫》1953-57年販売
SUDA Collection 三之瀬御本陣芸術文化館

05   須田国太郎の新たな魅力を検証します!

膝を崩して座る姿を見たことがないと近しい人々が述べるほど、真面目な須田国太郎ですが、「グリコのおもちゃ」を熱心に蒐集していたという意外な一面も。本展では、須田の蒐集した「グリコのおもちゃ」や愛用のカメラなどの遺品も併せて展示し、須田国太郎芸術の新たな魅力を検証します。

『須田国太郎ってどんな画家?』

須田国太郎は京都生まれの洋画家。しかし、美術の実技を学ぶ学校ではなく、京都帝国大学(現在の京都大学)の哲学科に入学し、美学美術史を学んだ、画家としては異色の経歴の持ち主です。

スペインに滞在

《モヘンテ》1922年 三之瀬御本陣芸術文化館
「絵画の理論と技巧」を研究テーマに大学院に進んだ須田は並行して、関西美術院へと通い始め、それまで独学で描いていた洋画の専門的な教育を受けます。第一次世界大戦の終結を待って、西洋絵画の研究のため、1919年にヨーロッパへと渡ります。当時、多くの画家が留学先として芸術の都とうたわれるフランスや古代ローマからルネサンス美術まで豊かな芸術の歴史をもつイタリアを選択する中で、須田が選んだのはスペインでした。スペインにあるプラド美術館は、油彩表現の花ひらいたヴェネツィア派の作品が数多く所蔵される美術館であり、ヴェネツィア派に関心のあった須田は「プラドの内容は予想を裏切らぬもので狂喜して」通ったと回顧しています。須田はプラド美術館へと通い名画の模写を行ったほか、各地を旅行して写生しました。

美術史の講師として教壇に

《遺跡(サグント劇場跡)》1922-23年 頃 三之瀬御本陣芸術文化館
帰国後の須田は、画家として作品を制作したいという思いを抱えながらも、作品を発表することなく和歌山高等商業学校や京都大学の講師となりました。同校で「希臘芸術史概説」「バロッコ絵画」「ギリシャ彫刻史」などの講義を行うなど、研究者の道を進んだかのように見えました。しかしながら、当時も須田は、写生旅行へでかけるなど必ずしも制作から離れていたわけではありませんでした。

画家として

《黄豹》1944年 三之瀬御本陣芸術文化館
そんな須田が再び制作と作品発表に力を入れ始めたのは、1928 年の恩師・深田康算の逝去がきっかけのひとつだといわれています。須田は恩師の肖像を描くことを申し出たほか、帝展への出品や初個展に挑戦しました。帝展には落選しましたが、この個展をきっかけに、川口軌外や里見勝蔵の尽力によって、1934 年、須田は独立美術協会の会員に挙げられました。以後、没するまで同会に作品を出品したほか、同会の研究所や同会主催の夏期講習などで指導にあたりました。1947 年には、日本芸術院会員に任命され、須田の日本の美術界における存在感は増していきました。その結果、全国からの審査や講義、講演の依頼が舞い込み、生活は多忙を極めましたが、それでも制作の時間を捻出し、意欲的な作品を発表し続けました。

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