全部で十七体の磨崖仏から構成されています。崖面の中央の如来坐像(推定)をはさんで向かって右側には、右端の十一面観音菩薩立像など六像が並びます。向かって左側には、右端の不動明王立像など十像が彫り出されています。いずれの像も彫刻面がひどく傷んでいるため像名が不明なものもありますが、近くの大分元町石仏にならって考えると、中央の如来坐像を薬師如来とし、その左右に釈迦如来、阿弥陀如来の二組の三尊像を設置し、過去・現在・未来の三世信仰を表わそうとした仏像配置であったと推定されます。平安時代後期の制作と思われ、当時のすぐれた仏教美術の技と仏教信仰の厚さをうかがうことができます。国史跡でしたが、傷みが著しいため県史跡に変更されました。なお右手の崖にはかつて小仏像を収めていた千仏龕が残されています。
ちなみに、「岩屋寺」の寺名は平安時代後期の「宇佐大鏡」(宇佐八幡宮文書)の中で、天喜元年(1053)、康平2年(1059)にその名が見えます。当時、この一帯は、宇佐神宮の領地であったところです。