霊山の北山麓、大分川の支流七瀬川の清流右岸谷筋の小丘陵に、高さ1.8m、幅4.5m、奥行1.5m程の石窟を掘り込み、その奥壁に、東を向いて彫られています。向かって右から馬頭観音坐像、如意輪観音坐像、胎蔵界大日如来坐像、大威徳明王坐像、深沙大将立像が彫出されており、平安時代末期の12世紀中ごろ以降の作とみられます。
中央の大日如来像は、ほとんど丸彫りに近いほど厚く彫り出されており、宝冠をいただき童顔です。向かって左端の深沙大将は、赤く彩色された炎髪を逆立て、どんぐり目に丸い顔、額に髑髏、胸にも髑髏の首飾りを付けていて、腹部には童女の顔を描き、赤い褌をしめています。左手には身体に巻きつけた蛇の頭を握りしめ、両脚にも蛇を巻きつかせています。中国唐の三蔵法師がインドに赴く途中、砂漠で守護した神といわれ、奇怪な姿に似合わない腹部の童女の顔は、慈悲の心の表現ともいわれています。
七瀬川流域は、当時、稙田氏によって開発された稙田荘のあった所で、石仏を造立したのも稙田氏とみられます。石窟の外、向かって右の崖に、小さな龕があります。中には一根三茎の蓮華座の上に阿弥陀三尊像を浮彫りにしたものが残っています。一根三茎仏は飛鳥時代に流行したもので、平安時代末期になっても豊後では造られていたことが分かります。