私たちが普段何気なく見ている風景や町並みは、日々変化し続けています。戦後の復興、市町村合併、新産業都市指定などにより急速に発展した大分市は、その風景・町並みも大きく変貌しました。かたや、当時の姿を今に残す場所もみられます。
ここでは、大分市内のさまざまな場所の「今」と「昔」を、古写真をもとに比べてみました。
大分中央
駅前ロータリー
大分駅の駅前ロータリー(駅前広場)は、戦災復興事業で昭和24年に整備されました。大分駅の新築に伴い、平成27年に改装され現在の姿になりました。
若草公園
若草公園は震災復興計画の一環として昭和27年(1952)に開園した都市公園です。平成10年(1998)に再整備が行われ、当時とは様変わりしています。
昭和通り交差点
昭和通り交差点は市内を東西にはしる「昭和通り」と駅に繋がる南北の「中央通り」が交差する場所です。昭和32年に比べて、現在では高層ビルが立ち並んでいます。
大分市庁舎
旧・大分市庁舎は昭和12年(1937)に荷揚町に建設され、戦後も利用されていました。昭和52年(1976)、旧庁舎の奥にある県教育会館の場所に現在の庁舎が建設されました。
大分電車通り
以前の中央通りには路面電車が走っており「電車通り」と呼ばれていました。路面電車は大正8年(1919)に大分駅まで延伸されましたが、昭和47年(1972)に廃止されました。
竹町商店街
竹町商店街は、江戸時代の「竹町通り」に起源をもつ商店街であり、昭和4年(1929)には県内で初めてアスファルト舗装がされました。戦後にアーケードが設置され、平成6年(1994)の新アーケード設置とともに「ガレリア竹町」に改められました。
大分赤レンガ館
赤レンガ館は明治43年(1910)に旧二十三銀行本店として辰野金吾の設計で建築された建物で国の登録有形文化財に指定されています。空襲で被害を受けましたがその後も利用され、平成30年(2018)にリニューアルされました。
トキハデパート
「トキハ」は昭和11年(1936)に開店した地方百貨店です。写真の建物は戦災で焼け残った開店当時のもので、昭和29年(1954)に最初の増設を行いました。昭和50年(1975)に大規模増築工事が行われ現在の姿になりました。
中央通り交差点
中央通り交差点はトキハと大分オーパの間にあるスクランブル交差点であり、市内で最も人通りが多く賑やかな交差点のひとつです。昭和48年(1973)には大分フォーラスの前身である大分ジャスコが開店しています。
府内城着到櫓と大手門
府内城の大手門と着到櫓は江戸時代から残る貴重な建物でしたが、昭和20年の空襲で惜しくも焼失してしまいました。現在の建物は昭和40年(1965)に復元されたものです。
遊歩公園
遊歩公園は、大分市の戦後復興計画の一環として、昭和26年(1951)に整備された都市公園です。園内には戦国時代に花開いた南蛮文化を紹介した彫刻などがあり、今も開園時と変わらぬ姿をとどめています。
遊歩公園から市庁舎を望む
遊歩公園から市役所方向の風景は、昭和52年(1977)の市庁舎の建て替え、昭和40年(1965)の府内城櫓の復元があり、大きく変化しています。
大分市役所より昭和通りを望む
大分市役所屋上より、大分川方面の昭和通りを撮影したものです。現在では当時に比べて、大分県庁新庁舎(平成15年竣工)をはじめ高層ビルが多く立ち並んでいます。
内堀と西之丸の櫓
府内城の堀は、江戸時代には外堀・中堀・内堀・内々堀がありましたが、現在も残るのは内堀のみです。その内堀も戦後の道路拡張により、東之丸側は一部埋められましたが、西之丸側は今も変わらぬ姿です。
昭和23年頃の府内城人質櫓
戦時中、人質櫓は空襲を避けるために迷彩塗装が施されていました。昭和20年7月の大分空襲でも宗門櫓とともに焼け残りましたが、屋根瓦や鯱の損傷が激しかったことが伺えます。
西之丸西南隅櫓と堀
西之丸西南隅櫓は、府内城の櫓の中で明治時代まで残った櫓の一つです。残念ながら昭和20年の大分空襲で焼失してしまいましたが、昭和41年に、大手門・着到櫓などとともに復元されました。
府内城西側の堀
明治末期から大正初期の府内城の堀には蓮が生い茂っていました。江戸時代の古文書にも御堀から蓮根を収穫した記録が残っています。
大分駅
大分駅は明治44年(1911)に開業した大分市を代表する駅です。開業当初は木造の駅舎でしたが、戦後、昭和33年(1958)に近代的な駅舎が新設されました。この駅舎は数度の改装を繰り返しながら使用されていましたが、大分駅付近連続立体交差事業に伴い、平成26年(2014)に現在の駅舎となりました。平成27年(2015)には北口駅前広場も完成し、大分駅の姿は大きく変わることとなりました。
大分西部
フォーナランド
フォーナランドは、1972年(昭和47年)にマリーンパレス水族館に隣接して開館した鳥獣類の剥製を展示する施設です。1982年(昭和57年)に閉館し、2004年(平成16年)に新たな施設として「高崎山おさる館」がオープンしています。
大分築港灯台
大分港は、明治44年に着工し大正4年に完工した本市の重要な港のひとつです。東西の防波堤の先端にある「赤灯台」と「白灯台」は当時と変わらぬ姿です。
佛崎
佛崎は、かつては「別府三勝」に選定される名勝地でした。岸壁には「南無妙法蓮華経」の文字が掲げられていますが、現在はその前面に落石防止の柵が設置されています。
佛崎海岸
大正時代、佛崎の磯部には「鶴の松」とよばれる松の大木があり、その美しい枝ぶりは有名でした。戦後、道路の拡張により、鶴の松は伐採されてしまいました。
南大分
大分川に架かる明磧橋と由布岳
明磧橋付近は、古くから由布岳・鶴見岳を望む景勝地として知られていました。明磧橋は明治時代には木造橋でしたが、水害での流失を経て、昭和4年(1929)に近代的な鉄骨アーチ式鉄橋に架け替えられました。その後、昭和54年(1979)には交通量の増加に伴い増設されています。
大道トンネル
昭和30年(1955)に開通した、県内初めての上下線別のトンネル。それ以前は、急な坂道の堀切峠を往来していました。トンネル開通を待ち望んでいた住民の思いとして、南口には「清風満地」、北口には「大道無門」の文字が刻まれています。
明野
新設された明野東小学校
大分市では昭和40年(1965)より明野団地の開発に着手し、この開発により明野地区では児童数が急増し小学校の新設が相次ぎました。明野東小学校もその一環として昭和47年(1972)に新設されました。
明野北交差点より南を望む
中央に昭和46年(1971)10月に開業したトキハインダストリー(現:明野センターアクロス)が見えます。歩道脇の石垣が当時のままであることが確認できます。
明野北交差点より北を望む
左に昭和38年(1963)開校した大分工業高等専門学校(大分高専)が見えます。未舗装の道路が黎明期の明野地区を物語っています。
明野西町より南町を望む
明野南町が造成されている様子が確認できます。「今」の中央に見える明野西小学校は昭和50年(1975)に開校します。
明野北交差点より西を望む
明野地区に住民の入居が始まって間もない様子が確認できます。当時、西町と緑町に県営住宅・分譲住宅が200戸余りありました。
大南
戸次本町通り(へつぎほんまちどおり)
戸次本町は、古くから交通の要衝として重視され、江戸時代には城下町以外で特別に商業活動を許された村(在町)として繁栄したところであり、今日まで受け継がれてきた文化の継承と歴史的な街なみの保全が図られています。この写真でも藤川金物店が当時と同じ姿で営業していることがわかります。
鳥越橋(とりごえばし)
橋は当時の面影を残したまま、今も昔も変わらず判田小学校や判田中学校に通う生徒の通学路となっています。
あかつき保育所(あかつきほいくしょ)
昭和31年(1956)に大南町立として、現在地に新設され、昭和38年(1963)の市町村合併に伴い、大分市立あかつき保育所となりました。昭和58(1983)年に、老朽化のため改築され現在の園舎となりましたが、今も昔も変わらず、子どもたちの元気な声が聞こえています。
坂ノ市
市西の十字路
坂ノ市には、市西から萬弘寺に続く通りに昔ながらの個人商店が建ち並んでいました。現在は、愛媛街道の面影を残す萬弘寺参道として整備されています。
臼坂バイパス
昭和53年(1978)、大分市坂ノ市と臼杵市を最短距離(約28分から8分に短縮)で結ぶ「臼杵坂ノ市有料道路」が開通されました。平成14年(2002)に無料開放され、県道205号に指定されました。
佐賀関
権現通り
明治22年(1889)に町制を施行した佐賀関町は、昭和30年(1955)1月1日に神崎村・一尺屋村と合併し、新・佐賀関町となりました。これを祝して、同年5月14日に「大佐賀関町誕生パレード」が権現通りで催されました。
黒ヶ浜
黒ヶ浜は、佐賀関半島付近の潮流によって研磨された蛇紋岩が堆積し、形成された漆黒の礫海岸であり、古くから景勝地として広く知られています。地域住民の継続的な清掃活動等により、現代でも変わらぬ景観美を保っています。令和5年(2023)3月には、国登録記念物(名勝地関係)に登録されました。
日鉱辛幸駅の付近
昭和21年(1946)に佐賀関へ鉱石を運ぶ「日本鉱業佐賀関鉄道」が開通し、17年間運行されていました。現在は、廃線敷の一部がサイクリングロードとして整備されています。
羽織掛の松
江戸時代、佐賀関地区は肥後領として細川氏が治めており、参勤交代の際には交通の要所とされていました。佐賀関の幸ノ浦地区にある「羽織掛の松」は、細川忠興(三斉)が参勤交代の際に立ち寄り、自身の羽織を掛けたことから今に伝えられています。
佐賀関の大煙突
第一大煙突(写真左)は、大正5年(1916)、佐賀関製錬所の開設の際、煙害防止のため建設され、当時は世界一の高さ(167.6m)を誇っていました。昭和47年(1972)に、紅白ラインが印象的な第二大煙突(写真右)が完成し、二本の煙突は佐賀関を象徴する風景でしたが、平成25年(2013)、老朽化に伴って第一大煙突は解体され、現在は第二大煙突のみが立っています。