大分市年表
先史時代より現在にいたるまでの大分市の歴史をビジュアル歴史年表でふりかえります。
先史時代より現在にいたるまでの大分市の歴史をビジュアル歴史年表でふりかえります。
先史・古代(旧石器時代~平安時代)
古代の大分市域では、古墳時代に大分川・大野川流域で地域の首長墓として古墳が築造されるようになり、「日本書紀」には「大分君恵尺」が壬申の乱で活躍したと記されています。律令時代になると、現在の上野丘一体に豊後国府が置かれ、聖武天皇の詔により豊後国分寺が建立されるなど、大分は豊後国の政治・経済・文化の中心地として栄えました。
中世(鎌倉時代~南北朝時代)
鎌倉時代、源頼朝の側近であった大友能直が豊後国の守護に任命され、蒙古襲来を契機に、3代・頼泰が豊後に定住するようになり、九州御家人の統帥と大友氏の豊後支配は強化されていきました。南北朝時代には、大友家の家督も両統迭立となりますが、16代・政親の代で廃止となり、やがて、18代・親治以降、大友氏は戦国大名として成長していきます。
中世(戦国時代~安土桃山時代)
大友家19代・義長、20代・義鑑は、領国支配を堅め、将軍家と密接な関係を築くなど、戦国大名としての基礎を固めました。21代・義鎮(宗麟)は大友氏の最盛期を築きあげ、南蛮貿易により府内は大きく発展しました。一時は九州六ヶ国の守護を兼ねた大友氏でしたが、島津氏との戦いに敗れ、22代・義統が豊臣秀吉から豊後を改易となったことにより、400年におよぶ大友氏の豊後支配は幕を閉じました。
近世(江戸時代)
大友氏の改易後、豊後は朝鮮の役の恩賞地として分割され、江戸時代には大分市域にも府内藩や熊本藩など、4つの藩領と幕府領が存在していました。府内城下町は豊後最大の都市として繁栄しましたが、江戸時代後期になると、府内藩は災害なども重なり藩財政が逼迫し、廣瀬久兵衛の支援で藩政改革を実施します。やがて幕末の混乱期を経て、大分は新しい時代を迎えます。
近代(明治時代~終戦)
明治4年、廃藩置県により大分県が誕生し、中世以来ふたたび大分がひとつになりました。県都となった大分町は明治44年には市制を施行し、「大分市」となります。明治時代には別大電車・日豊本線が開通し、昭和初期にはトキハデパートが開業するなど、大分市は東九州の拠点都市として発展していきます。しかし、太平洋戦争末期の大空襲により、市の中心部は一夜にして焼け野原となりました。
現代(戦後~現在)
戦後、上田保市長による復興事業により、大分市は急速に戦後復興を遂げ、昭和38年には大分市と近隣6市町村の合併により新「大分市」が誕生しました。翌年には新産業都市の指定を受け、新日本製鉄の操業開始などにより大分市は工業都市として発展し、人口も急激に増加していきます。平成17年には野津原町・佐賀関町と合併し、人口約47万人の九州有数の都市となりました。