大分市年表

先史時代より現在にいたるまでの大分市の歴史をビジュアル歴史年表でふりかえります。

先史・古代(旧石器時代~平安時代)

亀塚古墳

亀塚古墳

豊後の府・大分

古代の大分市域では、古墳時代に大分川・大野川流域で地域の首長墓として古墳が築造されるようになり、「日本書紀」には「大分君恵尺」が壬申の乱で活躍したと記されています。律令時代になると、現在の上野丘一体に豊後国府が置かれ、聖武天皇の詔により豊後国分寺が建立されるなど、大分は豊後国の政治・経済・文化の中心地として栄えました。

100頃弥生後期
大分県下の弥生集落が飛躍的に増大する。(守岡遺跡・尼ヶ城遺跡・多武尾遺跡など)
400頃古墳中期
大分市域に前方後円墳が出現する。(亀塚古墳・築山古墳など)
672飛鳥時代
大分君恵尺・稚臣が壬申の乱で活躍する。
690頃飛鳥時代
この頃、豊国が二分され、豊後国と豊前国が成立する。
727神亀4年
金剛宝戒寺の前身の寺が、大分市花園の創建される。
737天平9年
正倉院に残る「豊後国正税帳」が成立する。
749天平勝宝1年
この頃までに、豊後国分寺が創建される。
827天長4年
延暦寺の僧・金亀和尚が由原八幡宮を創建する。
1157保元2年
藤原頼長領の豊後国稙田荘が朝廷に没収され、後院領となる。
1171承安1年
この頃、由原八幡宮が豊後一宮となる。
1177治承1年
この頃までに、賀来荘が成立する。
1180治承4年
この頃、岩屋寺石仏、高瀬石仏が造られる。
1185文治年
臼杵惟隆・緒方惟栄らが源氏に兵船を提供する。
豊後国分寺七重塔

豊後国分寺七重塔復元模型(大分市歴史資料館)

中世(鎌倉時代~南北朝時代)

大友能直

大友能直版画(勝光寺蔵)

大友氏の豊後入国

鎌倉時代、源頼朝の側近であった大友能直が豊後国の守護に任命され、蒙古襲来を契機に、3代・頼泰が豊後に定住するようになり、九州御家人の統帥と大友氏の豊後支配は強化されていきました。南北朝時代には、大友家の家督も両統迭立となりますが、16代・政親の代で廃止となり、やがて、18代・親治以降、大友氏は戦国大名として成長していきます。

1196建久7年
大友能直が豊前・豊後の守護兼鎮西奉行に任命される。
1236嘉禎2年
大友親秀、豊後国守護職と所領を嫡子の頼泰に譲る。
1242仁治3年
大友頼泰が「新御成敗状」を制定する。
1270文永7年
このころまでに大友頼泰が豊後に移住する。
1274文永11年
元軍が来襲(文永の役)し、大友頼泰が豊後国御家人を率いて筑前博多で戦う。
1285弘安8年
大友頼泰が「豊後国図田帳」を幕府に注進する。
1306徳治1年
大友貞親が博多より直翁智侃を招き、臨済宗蒋山万寿寺を創建する。
1335建武2年
大友一族、戸次氏、野上氏などが足利尊氏方となる。
1358延文3年
大友氏時ら、高崎山城により懐良親王軍を撃退。この後高崎山城は北朝方の拠点となる。
1416応永23年
大友親著が豊後国・筑後国の守護識に補任される。
1425応永32年
大友持直が博多で海外貿易に乗り出す。
1469文明1年
大友政親ら、応仁の乱に東軍方として参加する。
1476文明8年
この頃、雪舟が豊後を訪れる。
1496明応5年
大友義右急死、政親も長門で切腹する。御所の辻合戦をへて大友親治が豊後を掌握する。
1501文亀1年
幕府が大友親治に大内義興の討伐を命じる。
高崎山

高崎山

中世(戦国時代~安土桃山時代)

府内古図

府内古図(大分市歴史資料館蔵)

九州の覇者・大友氏

大友家19代・義長、20代・義鑑は、領国支配を堅め、将軍家と密接な関係を築くなど、戦国大名としての基礎を固めました。21代・義鎮(宗麟)は大友氏の最盛期を築きあげ、南蛮貿易により府内は大きく発展しました。一時は九州六ヶ国の守護を兼ねた大友氏でしたが、島津氏との戦いに敗れ、22代・義統が豊臣秀吉から豊後を改易となったことにより、400年におよぶ大友氏の豊後支配は幕を閉じました。

1515永正12年
大友義長、「大友義長条々」を制定する。
1518永正15年
大友義長死去、大友義鑑が跡を継ぐ。
1522大永2年
大友義鑑が、大神親照を府内来迎寺で討ち取る。
1541天文10年
豊後国にポルトガル船が漂着と伝わる。
1543天文12年
大友義鑑が肥後国守護職に補任される。
1550天文19年
大友二階崩れの変が起こり、大友義鎮(宗麟)が大友家の家督を継ぐ。
1551天文20年
フランシスコ・ザビエルが府内を訪れ、義鎮がキリスト教の布教を許可する。
1553天文22年
豊後で初めての教会である府内教会建てられる。
1557弘治3年
アルメイダが府内病院を建設し、病人の治療を開始する。
1559永禄2年
大友義鎮が幕府より筑前国・豊前国の守護職に補任され、九州六ヶ国の守護を兼ねる。
1562永禄5年
義鎮、臼杵に丹生島城を築き移り、入道して宗麟と号す。
1573天正1年
宗麟、大友家の家督を義統に譲る。
1578天正6年
大友軍、日向国高城にて島津軍と戦い大敗する。(耳川の戦い)
1581天正9年
府内にコレジオが開校する。
1586天正14年
戸次川の戦いで秀吉援軍の長宗我部信親が戦死、島津軍の侵入により府内の町が焼失する。
1587天正15年
豊臣秀吉が大友義統に豊後国を安堵する。
1593文禄2年
秀吉、朝鮮における義統の失態を理由に大友氏を改易とする。
1596慶長1年
大地震により沖の浜が壊滅的な被害を受ける。(「瓜生島伝説」の起源とされる)
1597慶長2年
福原直高(長堯)が府内に入り、府内城の築城に着手する。

大友宗麟公銅像

近世(江戸時代)

御城下絵図

御城下絵図(部分・大分市歴史資料館蔵)

小藩分立の時代

大友氏の改易後、豊後は朝鮮の役の恩賞地として分割され、江戸時代には大分市域にも府内藩や熊本藩など、4つの藩領と幕府領が存在していました。府内城下町は豊後最大の都市として繁栄しましたが、江戸時代後期になると、府内藩は災害なども重なり藩財政が逼迫し、廣瀬久兵衛の支援で藩政改革を実施します。やがて幕末の混乱期を経て、大分は新しい時代を迎えます。

1601慶長6年
竹中重利が府内藩主となる。
1601慶長6年
大分郡の鶴崎・野津原、海部郡の大在・坂ノ市・佐賀関などが熊本藩領となる。
1602慶長7年
府内城の天守が完成する。
1623元和9年
松平忠直(一伯)が豊後国の萩原・のち津守に配流され、府内目付が配置される。
1626寛永3年
岡藩が三佐に御茶屋と船着場を造る。
1634寛永11年
竹中重義が切腹となり、日根野吉明が府内藩主となる。
1636寛永13年
日根野吉明、浜の市をはじめる。
1638寛永15年
島原の乱に日根野吉明が出陣する。
1650慶安3年
日根野吉明が初瀬井路を開く
1658明暦4年
松平忠昭が府内藩主となる。以後、廃藩置県まで大給松平氏が府内藩を治める。
1694元禄7年
貝原益軒が府内城下に訪れ、「豊国紀行」で町のようすを紹介する。
1720享保5年
今市の丸山八幡社の楼門が建立される。
1743寛保3年
府内城下町で大火が発生し、府内城の天守が焼失する。
1761宝暦11年
銭瓶石騒動が起こる。
1810文化7年
伊能忠敬九州測量のために豊後に入り、大分・海部の沿岸を測量する。
1842天保13年
岡本主米と廣瀬久兵衛による府内藩の藩政改革が始まる。
1848嘉永1年
臼杵藩が上・下宗方村に嘉永井路を開削する。
1858安政5年
府内城北之丸に府内藩校遊焉館ができる。
1867慶応3年
府内藩主・松平近説が若年寄に就任する。
府内城

府内城跡

近代(明治時代~終戦)

電車通りの絵葉書

大分電車通り(「大分名所絵葉書」大分市歴史資料館蔵)

大分市の誕生

明治4年、廃藩置県により大分県が誕生し、中世以来ふたたび大分がひとつになりました。県都となった大分町は明治44年には市制を施行し、「大分市」となります。明治時代には別大電車・日豊本線が開通し、昭和初期にはトキハデパートが開業するなど、大分市は東九州の拠点都市として発展していきます。しかし、太平洋戦争末期の大空襲により、市の中心部は一夜にして焼け野原となりました。

1871明治4年
廃藩置県により、市域に府内県・臼杵県・岡県・日田県・熊本県が成立、のち大分県になる。
1872明治5年
初代大分県令の森下景端が着任、府内城跡は大分県庁となる。
1877明治10年
西南戦争が起こる。中津隊が県庁を襲撃、西郷軍が鶴崎を襲撃する。
1889明治22年
市町村制の施行により、現市域に大分町などが成立する。
1893明治26年
大分銀行が開業する。
1902明治35年
堀川・竹町間の電車営業が開始される。
1906明治39年
佐賀関で精錬所が創業する。(のちの佐賀関精錬所)
1907明治40年
大分町が西大分町・荏隈町・豊府村を合併する。
1911明治44年
門司・大分間に日豊線が開通し、大分駅が開業する。
1911明治44年
大分町が市制施行、大分市となる。
1913大正2年
二十三銀行本店(現・大分銀行赤レンガ館)が建築される。
1915大正4年
大分港の築港が完成する。
1921大正10年
大分県新庁舎が旧府内城内に竣工する。
1936昭和11年
トキハデパートが開店する。
1938昭和14年
大分海軍航空隊が開隊する。
1941昭和16年
大分放送局が開局する。
1942昭和17年
豊州新報社と大分新聞社が合併して大分合同新聞社となる。
1945昭和20年
大分市大空襲により中心街がほぼ全焼する。
昭和8年 市勢要覧

昭和8年頃の竹町商店街(昭和8年「大分市市勢要覧」)

現代(戦後~現在)

臨海工業地帯

大分臨海工業地帯

新産都・大分市

戦後、上田保市長による復興事業により、大分市は急速に戦後復興を遂げ、昭和38年には大分市と近隣6市町村の合併により新「大分市」が誕生しました。翌年には新産業都市の指定を受け、新日本製鉄の操業開始などにより大分市は工業都市として発展し、人口も急激に増加していきます。平成17年には野津原町・佐賀関町と合併し、人口約47万人の九州有数の都市となりました。

1947昭和22年
初の公選大分市長に上田保が当選する。
1949昭和24年
新制の大分大学が開学する。
1952昭和27年
高崎山で野生猿の餌付けが始まる。
1953昭和28年
高崎山自然動物園が開園。
1959昭和34年
NHK大分放送局、大分放送(OBS)がテレビ開局。
1964昭和39年
大分・鶴崎地区が新産業都市に指定される。
1964昭和39年
マリーンパレスがオープンする。
1966昭和41年
大分国体秋季大会が開催される。
1966昭和41年
大分県立図書館(現・アートプラザ)が建築される。
1970昭和45年
テレビ大分(TOS)が開局する。
1971昭和46年
新大分空港が安岐町に開港する。
1971昭和46年
新日鉄大分製鉄所が創業を開始する。
1972昭和47年
別大電車が廃業する。
1973昭和48年
ジャスコ、ニチイ、ダイエーが大分市街地に相次いで開店する。
1981昭和56年
第1回大分国際車椅子マラソンが開催される。
1992平成4年
大分自動車道別府-大分間が開通する。
2001平成13年
大分市にビッグアイ(現・レゾナックドーム大分)が竣工する。
2002平成14年
大分でワールドカップサッカーが開催され、会場としてビッグアイが利用される。
2004平成16年
マリーンパレスが「うみたまご」の名称でリニューアルオープンする。
2005平成17年
野津原町・佐賀関町と合併し、新大分市が誕生する。
現在の大分駅

現在の大分駅

TOP