シベリア抑留体験者・⽥中悟さんに聞く

田中さんご夫妻の写真
田中悟さん(101歳)と田中キヌヱさん(96歳)ご夫妻

尊敬しあって生きること

今年101歳を迎えた⽥中悟さんは、⻘春期を過ごした満洲で終戦を迎え、その後、約4年間におよぶシベリア抑留を経験しました。
第⼆次世界⼤戦が終わる直前の1945年8⽉9⽇、ソビエト連邦軍は国境を超えて満洲に侵攻しました。ソ連の対⽇参戦による⽇本⼈の抑留者は約57万5000⼈にのぼり、ソ連だけでなく衛星国やモンゴル各地の労働⼒として連⾏され、過酷な強制労働によって約5万8000⼈が亡くなったとされています。
現ロシア領中央南部のイルクーツク州で約4年におよぶ抑留を経験した⽥中さんに、満洲での⽣活、過酷な抑留、帰国後の大分についてうかがいました。

満洲・新京で過ごした青春

田中さんは昭和20(1945)年5月に新京南領第7580部隊(固定無線教育隊)に入営しましたが、それ以前から満洲で暮らしていたそうですね。

田中:
昭和16(1941)年、18歳で誘われて新京の土建屋さんに務めていました。だから、入営する5年ほど前から暮らしていたわけですね。
満洲の家はだいたいがレンガ造りで土木材は凍ってしまうから、冬は仕事がないんです。ほとんどの小さい土建屋さんは5月まで休みで、まあ季節労働みたいなもん。わたしら若い者は留守番で金ももらえるし、何も仕事せんでよかった。

満洲で青春期を過ごされたんですね。

田中:
そうですね。やっぱりお金に釣られるんですな(笑)。大分では県庁に務めていて、一番下の給料が19円。班長さんが35円から40円ぐらいで。それが新京に行くと40円くれるというんだから。
(満洲の生活は)はっきり言ったらのんきなもんですよ。向こうの人(中国人)を下に見ちょんからね。我々は指導者で、クーリー(※苦力。19世紀から20世紀にかけて、主に植民地で肉体労働に従事したアジア系の移民・出稼ぎ労働者)を使えばいいんだからね。
満洲は寒いけれど、自分は金を仕送りもせず使い放題で、映画なんかもたくさん見た。関東軍司令部の脇に新京神社というのがあって、春夏秋と(年に3回)お祭りもあった。甘い考えしかなかったんですよね、当時は。若い時はそんなもんです。

新京で3年間ほど生活されて、その後に召集された?

田中:
3ヶ月の初年兵教育を受けて、8月に私は牡丹江の通信所に派遣になりました。ところが一週間もしないうちに、敦化の陣地構築のために移動。それが8月10日あたりだったかな。敦化は朝鮮民族が多くて、(現地の)おばさんから「兵隊さん、もう日本は戦争に負けた」と言われて、「そんなことあるか。いまから我々は陣地構築をするんだ」と答えたけど、向こうは笑ってた。共産圏の人だからよう知っとったんですね。

終戦ですべてが変わった

右側が満洲⻘年学校在籍時の⽥中さん
満洲⻘年学校在籍時の⽥中悟さん(右)
昭和17年

田中:
飛行場の脇にあった植物園が司令部で、我々の通信隊は50人ぐらいの小班ですわ。それで8月15日になって、班の偉い人たちがそわそわしているから「どうしたんですか?」と聞くと「もうちょっと待て、お前たちはそのうちに分かるから」と。

終戦の日ですね。

田中:
飛行場の脇にあった植物園が司令部で、我々の通信隊は50人ぐらいの小班ですわ。それで8月15日になって、班の偉い人たちがそわそわしているから「どうしたんですか?」と聞くと「もうちょっと待て、お前たちはそのうちに分かるから」と。

玉音放送をリアルタイムに聞いてらっしゃったんですか。

田中:
聞きました。いい機材を使っていたから、雑音だけど東京都内の放送も入ります。それで終戦を知りました。

戦争が終わることについて、どう思いましたか?

田中:
「ああ戦争終わった。家に帰れる、嬉しいな」ということが一番先に出たね。やっぱり新兵さんだから(軍隊内で)苦しめられているしね。満州時代のことを思い出して「早く帰りたいな」という。
しかし、どうも旗色がよくない。っていうのはね、ソ連軍がどんどん入ってくるでしょう。8月は雨季で道路は水浸し。日本軍の将校さんが日本軍の車でソ連軍の将校に連れて行かれるのだけど、ぬかるみに入って動けなくなったりする。そうすると(日本の)将校さんがやっこらやっこらその車を押すんですな。ソ連のカンボーイ(兵士)が監視しておるから、兵隊さんは何も手出しできない。それを見て「これが戦争の惨めさだなあ」と思いました。いままで偉かった将校が泥まみれになって。

田中さんが召集されたのが1945年5月です。実際の戦闘に参加しなかったにも関わらず、突然抑留されたことをどう思いましたか?

田中:
戦闘隊じゃなかったし、軍隊のいろはも分かりません。だから正直何も分かりませんでした。ソ連兵は「ヤポンスキー、スコール、トーキョー、ダモイ(日本人、もうすぐ、東京に、帰る)」ばっかり言って、その他は何にも言いません。わしら一番下の者は「ああ、帰してくれるかな」と思うばかりで、なすがままです。
当時ロシア領だったウクライナは穀倉地帯だったけれど不作で、ソ連の方も小麦の入手に非常に苦労しよった。いっぽう関東軍は部隊ごとに弾薬、食糧、兵器をたくさん持っていたから、それを全部本国(ソ連)に持って帰られて、その使役を我々がさせられる。もうわけが分からん。でも鉄砲を突きつけられているから働かざるをえんですわ。マンドリンと呼ばれてた軽機関銃でババババーとやるからね、もう恐ろしい。やつら、日本みたいに軍規がないからね、ところかまわず撃つんですわ。

終戦後のソ連侵攻については、ソ連兵による略奪や性暴力の記録が多く残っています。田中さんから見てどんな印象だったでしょうか?

田中:
もう泥棒集団。女を見れば犯す、家に入って欲しいものを奪る。時計なんかいくつも腕に巻いて。それが(ソ連兵にとって)手柄なの。かれらは掛け算もできなかった。

ロシアでは長く農奴制が採用されるなど、大きな社会格差や教育格差がありました。それも兵士の統率の取れなさの一因だったかもしれません。

田中:
それもあるんですよね。でもGPU(※ゲーペーウー。秘密警察)というのは服装もいいし、権力もあった。ターチカ(手押し車)で荷物を運んだとき、ソ連の将校にピストルを突きつけられたんですよ。「これは一貫の終わりだ」と観念していたら、GPUの騎馬隊が来て、将校を馬でガーンと蹴飛ばした。ソビエトの兵隊さんたちはGPUを恐れていました。

遺体をマネキンのように並べる

シベリア抑留に関する証言を読むと、最初の半年間が過酷だったという記述をよく見ます。戦争が8月に終わって、秋・冬の気候の厳しさ、食糧不足、制度の不備など多くの原因があったと思います。

田中:
とにかく食糧がないから。心も疲弊しておるし、くたびれて、どんどん若い者が死んでいく。毎日1人から2人、多い時は5人も死んだわ。冬だから凍った地面を掘って埋めることができないので、裸にして倉庫のなかにマネキンみたいに立てるんです。

遺体を凍った状態で横に並べていた絵などはよく見ますが……。

田中:
いやいや、真っ裸で立てる。その他にも、朝起きんかった人が黒パンをくわえたまま息絶えていたのを何回も見ました。大体は私より若い初年兵が多かったね。

初年兵の年齢はバラバラだったのでしょうか?

田中:
召集で来るから、年とった人もおる。23歳くらいから、一番年上で30歳ぐらい。うちの部隊は東北の人が多かった。
(話を戻して)9月になって輸送が始まった。そこでも「トーキョー、ダモイ(東京、帰る)」の言葉にだまされて、立錐の余地なく汽車に載せられた。貨車から海が見えて喜んだけれど、それは興凱湖(こうがいこ)という湖だったのは後になって知った。でも漁師さん(の兵隊)が何人かおってね「海のにおいがしない。これは湖だ」と言っていた。やっぱり漁師さんの勘はすごいですね。
ということは、やっぱりシベリア送りは本当かもしれんとなって。その後、さらに大きいバイカル湖でも海と勘違いして。長い貨車生活が終わったのが11月初め。我々の部隊は2個連隊で、3000人近くが22ラーゲル(収容所)に入りました。

収容所のなかの生活

田中:
5棟ぐらい兵舎があって、日本の練兵場と一緒でとても広い。22ラーゲルには1年ぐらいおりました。
入ったばかりの頃に、明治節(※11月3日。明治天皇の誕生日)に竹の棒を銃に見立てて宮城遥拝をやらされたり、最初のうちは(日本の)軍隊制度そのままでしたけど、半年後ぐらいから反軍闘争が始まって、将校と兵隊を全部分けて、下士官や新兵の階級が次第になくなっていった。
21年の暮れに86K12分所というところに鉄道建設に行ったけれど、そこからが苦労です。(地面が凍って)ツルハシは効きません。割れません。ノルマは達成しません。意欲がなくなって、病人が続出。死者が多くなる。一方で(昭和)22年の暮れに軍隊制度が完全に撤廃されて、やっと新兵さんも楽になりました。

環境が少しずつ変わっていったんですね。「民主運動」と呼ばれた、共産化教育が始まったのもこの頃でしょうか?

田中:
同じ頃から、主に農村出身の若い日本人が選ばれてタイセット地区学校に移されて、共産教育を受けるようになりました。共産党誌をみんな一冊ずつ持って、『日本しんぶん』(※日本人のシベリア抑留者に向けて制作された日本語新聞)を書く人がいたり。(監視のための)ロシア人のカンボーイ(兵士)がいなくなって、日本人がカンボーイになった。そういう人たちが共産党誌を持っとって、休みとかにそれを教えていく。洗脳ね、洗脳。

手記のなかで、田中さんは収容所で「寮司」の仕事をされていたと書いていますね。

田中:
寮制になったからね。寮長というのは作業全体を見て、寮司というのは、いわゆるお母さん役やな。作業に行けない体の弱い人を使って、部屋の中を掃除したり、いろいろなことをする世話役です。悩み事も聞くし、例えば勉強できなくてテストを通らない人の面倒を見たり。

収容所でテストがあったんですか?

田中 簡単なテスト。私のところは東北の人が多くて、仮名も読めない人が多かった。例えばある人は「小学校には行きました。でも田中さん、私のうちはこどもが多いから、いつも赤ん坊を学校に連れて行ったんです。泣き出すと授業に入られないので、外にいて。それで勉強しておりません」と。私はその人にいろはを教えてあげたこともある。いい人でね。私より年上だったから「じーさん」と呼んでたよ。
環境がよくなってきて、夜も勉強会があったり。3年ぐらい経つと、文化部というのができて、日曜日には演芸会もできた。

宮本武蔵の講談が人気だと聞いて驚きました。日本的な内容は収容所で禁じられていたと思っていました。

田中:
一番上の兵隊さんでなかなか頭のよい人がおって、毎晩宮本武蔵の話をしてました。もう一人、浪花節を語る大阪の人がいて、その人も毎晩各班を回って披露してました。

人気ですね(笑)。

田中:
その頃は食糧事情もだいぶよくなっていたから、お礼にパンをもらったりしてね。

生き残った理由、9年ぶりの日本へ帰国

⽥中夫妻へのインタビューの様子
インタビューにこたえる⽥中夫妻

田中:
227Kという収容所に移って、道路や兵舎のための丸太切り出しの作業をやっていたときに、足を怪我しました。木を削りよったら、タポール(斧)が滑って足の甲に当たった。血がバッと吹きあげた。そこから幕舎生活。2ヶ月くらい足を吊るし上げてどうにか治まったけれど、そこから私の運命は変わったんかなあ……。というのはね、作業に出ずに済んだ。いわゆる炊事班に入った。

怪我をしたので、炊事班に?

田中:
仕事ができんからね。その時の主計班長がいい人でした。炊事班はほとんどがパン切りや炊事の勤務。それで(体が)もったようなもんですわ。そのまま作業してたら、私も死んじょったかもしれん。人間、何が運命かわかりませんね。

抑留から生還した方の証言を読むと、本当に運が左右するというか、ボタンの掛け違えのようなちょっとした偶然で生きることができた方が大勢いると感じました。職人や音楽家のように、特別な技術のある/なしも影響しています。

田中:
運はあるなあ。運もあるし、軍隊の中での要領のよさもある。損をする人はどうしても損をする。生活が下手なんじゃな。(いまの)日本でも一緒でしょう。世間慣れしてる/してない、とか、人間と付き合いができる/できないとか、そういうのがある。

抑留中は本当にさまざまな経験をなさったと思いますが、嬉しさを感じる時もありましたか?

田中:
あんまり嬉しいということはない。なんとなく「しょうがないな」ということ。これは面白い話なんだけど、抑留最後の年の昭和24(1949)年に、収容所の隣に女性の収容所があった。その中にきれいなロシア人の女の子がいて、日本語がうまいの。「あんた、どうして日本語がそんなにうまいの?」と聞いたら、大連の海軍武官の下で事務をやっていたと言っていた。そして「兵隊さんももうすぐ帰れますよ」と話していました。その人と話すのが一番の楽しみやったな。

抑留後期は女性とも話せる機会があったんですね。

田中:
それはそうじゃねえ。日本人のカンボーイだけだから話も自由にできた。

その女性との会話から、帰国の可能性を知ったのでしょうか。

田中:
(抑留も)だんだん緩やかになって、(鉄道敷設の)仕事も終わったからね。ちょうど227Kの時期が境だったような気がします。日本人が全部責任持ってしよったからね。ああ、これはひょっとしたらそうかなと。まあ誰も言わんけどね。思うだけ。だけど、私は帰っても帰らんでも、どっちでもいいじゃないかという感じもしましたね。もう当時は。

生活に慣れてきて?

田中:
生活と食事が普通になって、すべてが自由になったから。奥地は寒いけれど、それは満州で慣れているから。内地から来た人とは感じ方が違って。6年おったからね。楽になったな。

しかし日本に帰る決断をなさったんですね。舞鶴港に戻る帰国船で、上陸を拒否する人がいたと手記にあります。これは民主運動の影響でしょうか。

田中:
私にはわかりませんけどね。他の船ではそういうのが多かったというし、私たちの船にもそういう雰囲気があった。私らは指導的立場にあったから「せっかく日本に帰ってきて、お父さん、お母さんに会えるんだ。そういうバカなこと言うな」と説得してみんなで上陸しました。他の組はそんなふうにはいかなかったそうで、褒められました。(こういうトラブルは数が多かったので)当時の新聞でも取り上げられてました。

復員時の家族写真
復員時に撮影した家族写真。前段右から2⼈⽬が⽥中さん

心があるからこそ人間

共産化が社会問題化するなど、帰国後に苦労される抑留者も多くいたと聞きます。

田中:
大分に帰って、どうということはないなあ。しばらくは毎日1、2回はお巡りさんが監視に来よった。それが1年ぐらい続いたので、あんまり色々なことはできんからね。それで家内の兄さんたちが店をしよったから手伝って、それで2人一緒にならしてもろうて。

それが奥様のキヌヱさんとのなれそめなんですね。

田中:
中央町に田中カバン店という店を開いて、商売を45年ほどやりました。そこの家主が倒産してしまって、こちらも出なくちゃいけなくなって、それで辞めました。それからもう「てれんぱれん(ふらふらする)」の、一番いい生活です(笑)。それで何か芸事でもするかということで、水墨画を10年ほど習いました。町内でグランドゴルフというのが流行ったから、これにしばらく出て。98歳までやりました。

当時の田中カバン店の写真
⼤分市中央町で夫婦で始めた⽥中カバン店

お2人がご結婚されたのはおいくつの時ですか?

田中キヌヱ:
私が22歳だから(この人が)27歳。帰ったのが昭和24年やったね。

田中:
24年の9月。9月2日に家に着いた。

田中さんは元抑留者の集まりにも積極的に参加されてきましたが、多くの方がご他界されたそうですね。

田中:
ほとんどおりません。もう私1人。長生きしすぎたな(笑)。

今回お話をうかがって、前向きにとらえて行動することが生きることの秘訣のように感じました。

田中:
そうですよ。やっぱり人間関係です。人と人のつながりだけは大切にしないといけない。人を恨んだり、人をけなしたりしてはいけない。同じ人間ですからね、仲良くし合わないと。尊敬し合うことが、一番大切じゃないかな。

それはシベリア抑留においても同じだったでしょうか?

田中:
そうかもしれんね。抑留では色々と苦い思いもしてきた。まあ、人間というのはねぇ……心があるからこそ、人間じゃないかな。心がなくなったら人間じゃなくなるんじゃないか。そう思います。


インタビュー&構成:島貫泰介(⼤分市教育委員会⽂化財課地域おこし協⼒隊)
取材協⼒:河野琴⾳、吉武鈴菜、藤原厚作(⼤分県⽴芸術⽂化短期⼤学藤原ゼミ)

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